記るす者として

全国紙の記者のたまごの日常です。ちょっとした小話や時事問題への雑感も。

雑感 001 ジャーナリズムとは

近年、相次ぐ誤報や強引な取材方法などで、マスコミが批判にさらされることが多くなった。

マスコミよりネットの情報の方が信頼できると考える人もいるようだ。

もちろん、ネットにも気鋭のメディアは多いし、そのようなものは有効活用すべきだ。

 ただし、掲示板などの出典不明の情報となれば話は別だ。記者が取材と裏取りをして、デスクの目と編集会議を通ったマスコミの情報の方が信頼性は高いと言えるだろう。

「マスコミは偏向をしている」との批判もよく聞くが、その社の主張が気に入らないのであれば、他の社のものと読み比べをして、情報を取捨選択すればよい。 

 

かと言って、マスコミも誤報をしないわけではない。

細心の注意を払っていても、人間のやることなので可能性はゼロではないだろう。

読み手も疑ってかかることが大事だ。

では、書き手であるマスコミは、誤報とどう向き合っていくべきか。

細心の注意を払う事。起こってしまったら迅速に訂正と謝罪記事を出す事。

この辺りは当然だろう。

今回は違う視点から話をしたい。

   

 誤報が起こる原因は何か。

もちろん、記者の不注意や裏取り不足もあるだろう。

だが、私は、記者個人の先入観やイデオロギーに起因するものが一番多いと思う。

 記者が「現実はこうあって欲しい」「~~が~~するはずがない」と思いこむことで、記事もそれに引っ張られてしまい、事実と違う地点に着地してしまう。

そうして誤報が生まれる。

 

近年の誤報と言えば、A社の吉田調書やS社の沖縄海兵隊救助などがある。

裏取り不足という点も共通しているが、どちらも記者個人の願望が誤報となって表れた典型的な例であると言えるだろう。

 

 

 誤報が起こると、その会社のジャーナリズムの姿勢が問われることが多い。

実際にここでもジャーナリズムについて考えてみたい。

 

マスコミには、社会に起こった事象を広く知らしめる「報道機関」としての役割と、その組織の主義・主張を伝える「言論機関」としての役割がある。

私の主観だが、N局やY紙やN紙は前者の役割を重視し、A紙やT紙やS紙は後者の色合いが強いように思う。

もちろんどちらの考えも否定しない。

  

ここからは私の考えだ。

私は、「国民に対して、社会について考える機会・材料を提供すること」がマスコミの使命だと思う。

そのためにはなにが必要か。

社会で何が起こっているかという「情報」だ。

「答え」を提供してしまうと、国民は考えることを辞める。

その「答え」が間違っていることだってある。

もちろん、公正、公平、中立な「意見」は、すすんで発信すべきだが。

 

また、ジャーナリズムとは「批判的精神」であるとよく言われる。

私はそうは思わない。

最初から全て批判的精神から物事を見てしまうと、普遍的な真理まで否定してしまうことにならないか。

大切なのは是々非々だ。

国民の側も、マスコミの批判をそのまま受け入れ、マスコミの考えと完全に同調するようになる、いや、同調しかできなくなるだろう。

そうなるとマスコミの肥大化に繋がりかねない。

権力と対峙することを意識するあまり、自らが権力となっては意味がない。

ミイラ取りがミイラになってはいけないのだ。

 

大切なことは、マスコミ自身が、あらゆる事象に感想と疑問を持ち、考えに考えることではないか。

ジャーナリズムとは「疑問を持ち、考える姿勢」だと思う。

そうして、国民に対しても考えることを促す。

批判をするのはあくまで国民の仕事だ。

 

 

最近の話もしておくと、意見を主張するという行為は、SNSの発達によって一般化した。

いわば、誰でも「言論機関」になれる時代なのだ。

では「報道機関」はどうか。

報道するためには、現場に行って取材しなければならない。一定の気力とノウハウが必要だ。

一億総「言論人」になることはできても、一億総「記者」になることはできないのだ。

 

 

 

以上の点をまとめると、これからのマスコミに求められるのは、「報道機関」としての役割ではないだろうか。

それに応えていく事がマスコミの信頼回復の第一歩だ。

 

 

批判精神を批判する内容なのだが、この記事自体、批判精神の塊みたいなものになってしまった。(笑)

ジャーナリズムに対して感想と疑問を持った結果だということでご容赦頂きたい。

小話 001 親子丼

私は最近まで海外に行ったことが無かった。

海外に対して憧れは持っていなかったし、海外に行く必要性も感じていなかった。

憧れに関しては今も変わっていない。

しかし、ある経験をしてからは、後者の考えは変わった。

 

 

それは2年前、遠い海外の国でホームステイしていたときの話。

 

ステイ先は母と息子の2人暮らしだった。

母は聖母のような優しさを持った人。

息子はロックシンガー。皆が思い描くロックシンガーそのものという感じだ。

2人の性格はまるで対照的である。


「父親はどうしたのか」と聞くことは敢えてしなかったし、その質問を失礼なく聞ける自信は無かった。

何しろ私は英語が苦手なのだ。

 

 

初日。

空の旅を終え、現地の空港に着くと、母親が出迎えてくれた。

母親の車に乗り込み、そのまま街中を案内してもらった。

車中は質問タイムだ。お互いを質問攻めにした。

家族構成、大学生活、将来の夢。

拙い英語で話した。

もちろん日本の話もした。 

「好きな日本料理は何か?」と聞かれたので「oyakodon(親子丼)」と答えた。

実はそんなに好きなわけではないのだが、異国の地がダシの味を恋しくさせていたのかもしれない。

 

一通り街を案内してもらった後、家に戻った。

2階の部屋に案内してもらい、一息ついた。少し喋り疲れた。

日本でいるときとは違い、頭をフル回転させながら喋るのだ。

それはもう、疲れる。

 

「Hey guys! dinner is ready! 」

1階から聞こえる母の声で起こされた。

いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

階段を降りると、美味しそうな夕食が並んでいた。

息子もいた。どこかのロックスターのTシャツを着ていた。日本では売っていないような派手なシャツだ。


食事中、先ほどの続きで、「親子丼」について詳しく話した。

「oyako(親子) is egg and chiken.」「don(丼) is rice.」

今思えば、書き起こすのも恥ずかしいくらい拙い英語だ。

画像を見せて、やっとどのような料理であるか伝わった。

 

次は「親子丼」という日本語の意味について話した。

「oyako(親子) means parent and child.」

しばらく間があってから、息子は大爆笑した。

理解するのに時間がかかったのだろう。「なんてクールな名前だ」と言っていた。

母は唖然としていたが、当然の反応だろう。

日本にいると気にならないが、その由来はなかなかむごいものがある。

文化の違いを痛感した。

 

 

それから2週間ほど経って、現地の暮らしにも慣れてきた。

この日も学校を終えて家に帰り、部屋で寛いだ。

「Hey guys! dinner is ready! 」

いつものように1階から母の声が聞こえてきた。

腹を空かしていた私は、急いで階段を駆け下りた。

 

芳ばしい香りがする。どこか、懐かしいような香り。

テーブルにあったのはなんと、「親子丼」だった。

私が好きだと言ったのを理由に、わざわざレシピを調べて作ってくれたのだ。

胸がいっぱいになった。

実はここだけの話、ダシを割らずに原液のまま使っていたため、味はかなり濃かった。

しかし、そんなことも気にならないくらい有り難かったし、親子丼も美味しく感じた。

すぐにお腹もいっぱいになった。

 

国境を超えても、思いやりの心は存在する。

文化は違っても、人の心は同じ。

それを学べた瞬間だった。

こんな経験は海外でしかできないだろう。

 

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「ブログの記念すべき最初の話が『親子丼』かよ」

こう思った人が多いだろう。

実はブログを作ったことに大した理由は無い。

この「親子丼」の話をどこかに載せたいなと思っただけだ。

そう、このブログは「親子丼」以外まっさらなのである。

そのため恐らく更新頻度はかなり低い。

しかしまあ一応、このようにフィクションやノンフィクションを小話として載せていきたいと思う。あと雑感もね。

暇がれば是非読んで下さい。よろしくお願いします。

最後に、気持ちの入り様から察した人もいると思うが、この話はもちろんノンフィクションである。私が実際に体験した話だ。